「酔古堂剣掃」から学ぶ、生き方の美学

陸紹珩の記した「酔古堂剣掃」(すいこどうけんすい)にこうあります。
「人、一字識らずして而も詩意多く、一愒(いちげ)参せずして而も禅意多く、一勺濡らさずして而も酒意多く、一石暁(さと)らずして而も画意多きあり、淡宕(たんとう)の故なり」
この言葉は、外界からの学びや物質的な経験を超えた場所に、人生の本質的な美と意味が存在することを教えてくれます。

詩意と禅意の追求
この言葉には、文字を知らずしても詩的な美を感じ取ることができるという教訓があります。これは、生きることの中に自然と詩があるということ、つまり、生活そのものが詩であり、その詩を読み解くには外部からの知識よりも、内面的な感受性が重要であるということを示唆しています。同様に、「一愒参せずして而も禅意多く」という部分は、禅の修行を行わなくても、日常生活の中で禅的な心境に達することが可能であることを示しています。これは、静寂の中で自己と向き合い、内面の平和を見出すことの重要性を教えてくれます。

酒意と画意の発見
「一勺濡らさずして而も酒意多く」は、酒を飲まなくともその楽しみや魅力を感じることができるように物質的な体験に依存せずとも、人生の豊かさや楽しみを見出すことができるという意味で、心の豊かさが物質的な消費を超える価値を持つことを示しています。「一石暁らずして而も画意多きあり」は、絵を描く技術を身につけなくても、美を感じ取ることができることを意味し、美的感受性が個々人の内面から湧き出るものであることを示しています。

「淡宕の故」に学ぶ
これらの教訓は、「淡宕の故なり」と締めくくられます。これは、詩意や禅意、酒意、画意といった生活の中の深い美や意味は、外から得る知識や経験によるものではなく、自然と調和し、自己の内面から発するものであるという普遍的な真理を示しています。つまり、外部世界との関わりを超え、自己の内面に根ざした生き方を追求することが、真の満足と幸福への道であるという教えです。

まとめ
「淡宕の故」から得られる教訓は、知識や経験を超えた場所に、人生の真の美が存在するということです。それは、外からの学びや物質的な経験を超えて、自己の天稟に従い、内面からの声に耳を傾け、真の自己を刷新し続けることの重要性を教えてくれます。この教訓は、私たちに対して、日常の忙しさや物質的な追求から一歩引いて、自分自身の内面と深く向き合う時間を持つことの価値を再認識させてくれます。

自己の内面から湧き出る詩意、禅意、酒意、画意を感じ取るためには、外的な知識や経験を超えた自己理解と自己反省が必要です。これらは、外部から得られるものではなく、自己の内面から発するものであり、自然と調和し、自己の本質に根差した生き方をすることで、より深く感じ取ることができます。

「淡宕の故」は、物質的な豊かさや外部からの評価に依存するのではなく、自己の内面の充実と成長に重きを置く生き方を促します。これは、自分自身の価値観や信念に基づいて生き、自己の天賦の才を最大限に活かし、それによって自己実現を図ることの大切さを示しています。

最終的に、「淡宕の故」から得られる教訓は、人生をより豊かにし、深い満足感と幸福を得るためには、外界との関わりを超えて自己の内面に目を向け、自然と調和し、自己の本質に根差した生き方を追求することにあると言えるでしょう。このような生き方は、詩的であることを意味しており、詩の英語ポエムの語源はポイエインという古代のギリシャ語です。ポイエインとは道徳的、創造的であることを意味しています。これは天稟に従って生きることが道徳的であり、創造性もある同時に、真の意味での自己実現へと繋がる道なのだという意味なのです。(2024/3/31 小竹)