第9章 書かれない知──沈黙と余白に宿るもの
知とは、言葉にされたものだけではない。 むしろ、最も深く人を動かす知は、語られず、書かれず、ただその場に漂い、沈んでいることが多い。
この章では、「書かれない知」「語られない知」がどのように存在し、なぜそれが私たちにとって大切なのかを探っていく。
1. 知はすべて言語化できるのか?
私たちは何かを知ったとき、それを言語化しようとする。 だが、知には言語にしようとした途端にその本質が失われてしまうものがある。
たとえば、職人の手の動き、誰かにかけた言葉のタイミング、沈黙の選択。 それらは一つの正解として語れるものではない。 状況・関係性・感受性が絡み合ってこそ成立する知であり、それらを抜き出して言葉にしたとき、本質はこぼれ落ちる。
言語化は大切だが、言語化だけでは届かないものがある。
2. 沈黙にある知
教えられなかったけれど、感じ取ったことがある。 語られなかったけれど、受け取ったと感じたことがある。
沈黙とは、何もないことではない。 そこには、相手を思いやる気配、場を整える配慮、言葉にできない共感といった“濃度の高い知”が含まれている。
沈黙を怖れずにいられる組織や関係性には、暗黙の信頼と知の共有がある。
3. 余白が知を招き入れる
知は、詰め込まれたところには入り込まない。 逆に、余白や“ゆるみ”のある空間に、ふと舞い降りてくることがある。
余白とは、問いが滞在できる空間である。 答えが出ていないことを許す雰囲気、意見が出揃わない時間、不完全さを受け入れる態度──そこに、知が育つ場が生まれる。
すべてを説明しきろうとしないこと。 あえて書かないこと、語りすぎないこと。 それが、知の余白を守る知恵である。
4. 書けない知をどう扱うか
組織において、すべてをマニュアル化しようとすることは、知の“乾燥”を招く。
本当に重要な判断や行動は、「その場でしか成立しない」ものであり、それを記述しようとするほどに、意味は薄れてしまう。
では、それらの書けない知をどう扱えばよいか?
- 話すこと:言葉にならないことを、言葉にならないまま共有する
- 見せること:背中やふるまいの中に知を込める
- 共にいること:判断の場にともに立ち会う
書けない知は、「場」と「関係性」のなかで継がれる。
5. 知は、空白の中で呼吸する
知を育てるとは、語りすぎない勇気を持つことでもある。 書かないことで守られる知がある。 語らないことで伝わる知がある。
沈黙と余白に宿る知は、目には見えないが、確かに人と組織を支えている。
そしてその知は、計画や制度では育てられない。 信頼、時間、そして“ともにある”ことの中でしか、根づいていかない。
書かれない知が支えているという前提に立ったとき、私たちは初めて、知というものの全体像に触れることができるのかもしれない。(2025/6/11 小竹)