第5章 知が形骸化するとき──組織が知を失う瞬間
形式知は、知を共有し、標準化し、再現可能にするための力強い手段である。だからこそ、あらゆる組織はその恩恵を受けて成長してきた。
だが、形式知には深刻な落とし穴がある。 それは「これを守ればうまくいく」という安心感の裏側で、知の本質を忘れさせてしまうことだ。
この章では、「形式知偏重」がもたらす組織的な思考停止、関係性の劣化、そして知の形骸化について掘り下げていく。
1. 形式知はなぜ偏重されるのか
形式知は可視化できる。管理できる。評価できる。だから組織はこれを重視する。
研修マニュアル、手順書、チェックリスト、eラーニング、ナレッジベース……。 整備すればするほど、「整っている感じ」がする。 だが、それはあくまで「整っているように見える」だけであって、知が本当に深まっているとは限らない。
形式知は“安心”をもたらすが、“応答性”や“柔軟性”は保証しない。 つまり、形式知は秩序を提供するが、意味や納得は提供しない。
2. 思考停止の構造
形式知に依存する組織では、「考えること」よりも「従うこと」が評価されるようになる。 その結果、具体的な状況や実践の場での判断は止まり、異なる意見は排除され、現実に合わないマニュアルだけが生き残っていく。
こうして知は、現実に対応する“生きた知”ではなく、“過去の正解の化石”となってしまう。
「なぜそれをするのか?」という問いが消え、「どうやるか」だけが残る。 このとき、知はもはや知ではなくなる。動きを止めた知は、知であることをやめるのだ。
3. 関係性の劣化と責任の希薄化
形式知だけが流通し、実践知が軽視されると、具体的な状況や実践の場の人間関係も変質する。
- 「書いてある通りにやれ」
- 「前に聞いた話と違う」
- 「それ、マニュアルにないよね」
こうした言葉が日常化すると、人は人と対話しなくなる。 「考えを聞く」より「マニュアルを参照する」ことが優先される。
その結果、責任は分散し、対話は減少し、知の循環は止まる。 組織は静かに硬直していく。
4. 形骸化した知の見分け方
形骸化した知とは、「意味が問い直されていない知」である。
- なぜそれをするのか、誰も説明できない
- 問題が起きてもマニュアルの修正だけで済ませてしまう
- 新人が「これは何のためですか?」と聞くと具体的な状況や実践の場が困る
こうした兆候があるとき、知は既に死に始めている。 それはもはや「知の伝達」ではなく、「手順の模倣」に過ぎない。
5. 形式知は“知の終点”ではない
形式知は、実践知や暗黙知の「通過点」であり、「仮の姿」である。
本来の知の営みとは、
- 暗黙知として経験され
- 形式知として整理され
- 実践知として判断と結びつき
- 再び具体的な状況や実践の場の中で意味を獲得していく
という“知の運動”にある。
それを止めてしまうとき、知は形骸化し、組織もその力を失っていく。
6. 知の再生とは何か
知を再び「生きたもの」にするにはどうすればよいか。
- 「問い」を取り戻すこと
- 「語り合い」の場を設けること
- 「例外」や「違和感」を歓迎すること
つまり、マニュアルの外で知が動く余地を意図的につくることである。 知は書かれた瞬間に死ぬのではない。 書かれたものしか参照しないとき、死ぬのである。
知の呼吸を取り戻すこと──それが形式知偏重社会を超える第一歩である。(2025/5/14 小竹)