第4章 実践知の重み──判断と存在の交差点

私たちは日々、無数の判断を下している。言葉を選ぶ、動くタイミングを計る、あるいは沈黙する。 それらは往々にしてマニュアルやルールの範囲外で行われるものであり、「正しい」と明記された基準には照らしようのない決断である。

それでも私たちは、その場その場で「最善」を選び取ろうとする。 このとき、支えているのは「実践知」──経験に裏打ちされ、状況と関係性を読み取り、そして自らの価値観に照らして動く、重みを持った知である。

本章では、「実践知」とは何かを掘り下げ、その本質を「判断」と「存在」の関係から捉えてみたい。

1. 「判断」としての知

アリストテレスは知を三つに分けた──理論知(エピステーメー)、技術知(テクネー)、そして実践知(フロネーシス)。 この中でフロネーシスは、単なる知識でも技術でもなく、「人間としてどうあるべきか」を判断する知である。

実践知とは、知識と経験、感性と倫理、直感と省察が交差する地点に生まれる。 それは、「正しいかどうか」ではなく、「適切かどうか」を見極める力であり、絶えず変化する現実の中で、人と関係を結びながら働く知である。

マニュアルやルールに従うことが“形式的な正しさ”を保証する一方で、実践知は“人間的な適切さ”を保証する。 そして実は、組織や社会の土台を支えているのは、後者のほうである。

2. 判断が「人」を映し出す

実践知は、判断の質を問う。 「何をすべきか」ではなく、「この状況で、自分は何を選ぶのか」という問いである。

そこには必ず、判断者の価値観、生き方、倫理がにじむ。 判断とは、知の表出であると同時に、その人の「在り方」の表出でもある。

したがって、実践知とは単なる“経験の蓄積”ではない。 それは「この経験を、どう意味づけてきたか」「それを、どう自分の判断に反映してきたか」という、知の熟成の営みである。

このとき、判断は「知識の選択」ではなく、「存在の表明」となる。 だからこそ、実践知には重みがあり、他者の信頼や共感を呼ぶ力を持つのだ。

3. 「今ここ」の中で立ち上がる知

実践知は、あらかじめ持っている知識ではない。 状況のなかで立ち上がるものであり、その都度、再編される知である。

「いつもこうしてきた」ではなく、「今、この人、この場、この関係性、この空気の中で、どうするか」。

その判断には、即興性、感受性、関係性、そして勇気が必要になる。

たとえば、型通りに接客するのではなく、目の前の顧客の表情を見て声のトーンを変える。 マニュアル通りの注意をするのではなく、その人の尊厳を守る言葉を選ぶ。 それらは、研修では教えられないが、確かに“知”としてそこにある。

4. 実践知の成熟とはなにか

実践知は年数だけでは成熟しない。 むしろ、「経験をどう振り返り、どのように言語化し、どう他者と共有し、どのように変化させてきたか」という、反省と対話のプロセスがあってこそ深まっていく。

この意味で、実践知は共同的に育つ。 共に語ること、共に失敗すること、共に気づくこと。 その繰り返しのなかで、知は単なる「自分の経験」を超えて、他者と織り合わされた厚みを持ち始める。

そして、そうした知は他人に“伝える”ことはできなくとも、“伝わる”ことはある。 言葉でなく、振る舞いによって。 指導でなく、背中によって。

5. 「知る」は「生きる」に重なる

最終的に、実践知とは「生きること」と不可分になる。 判断とは、その人がどう生きているかを映し出す。 知とは、在り方であり、生き方である。

だからこそ、実践知は形式知に還元できない。 マニュアルや教育資料として取り出した瞬間に、その本質はこぼれ落ちてしまう。

企業においても教育においても、私たちが目指すべきは、「実践知が育つ場」の構築である。 それは、失敗が許され、問いが歓迎され、語りが尊重される空間である。

知は、存在の深さとともにある。 だから私たちは、知を育てるとき、生き方をも育てている。

そしてそのとき、知は初めて「使えるもの」ではなく、「共にあるもの」へと変わっていくのだ。(2025/5/7 小竹)