第2章 アウフヘーベンの力学──知の統合と超越
知は流れる。知は巡る。 私たちが前章で見た「暗黙知」「形式知」「実践知」は、それぞれが独立した存在ではなく、絶えず関係し合い、動き続けている。
この章では、その「知の動き」に焦点をあてる。 そして、それを哲学的に捉える鍵となる概念──「アウフヘーベン(Aufheben)」を手がかりに、知がどのように展開し、深化し、次の段階へと進んでいくのかを見ていく。
1. アウフヘーベンとは何か
「アウフヘーベン」という言葉は、ドイツ観念論の哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルによって、特異な哲学的意味を与えられた。
この語はドイツ語で「aufheben」と書かれ、三つの相反する意味を同時に持つ。
- 廃棄する(否定)
- 維持する(保存)
- 高める(昇華)
これらは一見矛盾するが、ヘーゲルにおいてはこの三つが同時に起こることこそが、世界や精神の進化の原理とされた。
あるものが否定されつつも、その本質は保存され、より高次の次元へと統合される──。 このような運動を「止揚(アウフヘーベン)」と呼ぶ。
ヘーゲルの弁証法においては、「テーゼ(肯定命題)」「アンチテーゼ(否定命題)」の対立が、「ジンテーゼ(統合命題)」として昇華される。 知もまた、この止揚の運動のなかで進化し続けるのである。
2. 知の運動としてのアウフヘーベン
知が深化するとは、どのようなことなのか? それは単なる蓄積や拡張ではなく、「矛盾の受容と統合」を通じて、より本質的な理解へ至ることである。
たとえば、具体的な状況や実践の場で身につけた暗黙知が、ふとした機会に言語化され、他者に共有される──これは暗黙知の形式知化である。 だが、言語化の過程では、常に「伝わらないもの」「切り捨てざるを得ないもの」が生じる。
一方で、形式知が具体的な状況や実践の場に持ち込まれると、そこで“うまくいかない”ことがある。 このズレを経験することで、人は形式知の限界を認識し、それを超えた判断を迫られる。 ここで実践知が立ち上がる。
こうした運動の中で、知は否定され(かつての正しさが揺らぐ)、それでも本質は保持され(経験は活かされ)、そして新たな意味が生まれる(高次への統合)──これがまさにアウフヘーベンなのである。
3. 知は固定できない──「形式知」に留まる危うさ
多くの組織や教育の場、具体的な状況や実践の場で、「形式知」がすべてだと思われている。 手順、指示、マニュアル、研修カリキュラム。
だが、それらは知の“瞬間の断片”でしかない。 知の流れの中で、一時的に「定着した」だけのものである。
もしその定着が、止揚の運動を拒み、変化や対話を閉ざしてしまえば、知は死ぬ。 知は硬直し、形骸化し、かつての「正しさ」がむしろ具体的な状況や実践の場の柔軟性を損なうことになる。
知とは、常に動きながら、問い直され、編み直されていく存在だ。 その動きを封じることは、知の本質を忘れることに他ならない。
4. 対立と矛盾は進化の入口
知の進化には、必ず「違和感」や「ズレ」がある。 具体的な状況や実践の場での失敗、部下とのすれ違い、理論と実践の乖離。
これらは、知の破綻ではなく、次の段階への入口である。 破綻の中に、矛盾の中に、止揚の契機が眠っている。
ヘーゲルがそうであったように、私たちも知を「対立なき調和」ではなく、 「葛藤と統合のダイナミズム」としてとらえなければならない。
そしてそのとき初めて、知は“生き物”として、私たちの中に再び息を吹き返す。
5. 「知の呼吸」を取り戻す
アウフヘーベンとは、固定を拒む知の呼吸である。
知は、伝えると同時に、裏切られる。 わかったと思ったときに、わからなくなる。 正しいと思っていたものが、別の文脈では間違いになる。
そうした運動を通じて、私たちは少しずつ知を深めていく。
知とは、そうした「失敗」「違和感」「再編」の総体なのだ。 それは静的なデータではなく、動的な生成であり、 絶えず編み直されていく網の目である。
その編み直しの力こそ、アウフヘーベンである。
次章では、この知の動きを縦と横の関係性からとらえ直し、「経(たて糸)」と「緯(よこ糸)」の視点から、知がどのように織り上げられていくのかを探っていく。(2025/4/23 小竹)