第1章 形式知という幻想──知の限界に気づくために

私たちは「知っている」という状態に、あまりに自然に身を置いている。 学校では「知識を身につけなさい」と言われ、職場では「マニュアルを覚えて」と指示される。 日常の至るところに「知」は存在し、あたかも空気のように、そこにあることを疑わずにいる。

だが、改めて問おう。

「知る」とは、いったいどういうことなのか?

私たちが「知」と呼ぶものは、本当に言語で説明できるのか。 それは他者にそのまま手渡すことができるのか。 あるいは、時間と共に熟し、育ち、失われ、継がれていくものなのか。

この章では、「知」をひとつの静的な物体ではなく、時間と関係性の中で生きる“かたち”としてとらえ直してみたい。 そのための手がかりとして、本章では「暗黙知」「形式知」「実践知」という三つの知のあり方を取り上げる。 それぞれが持つ性質と限界、そして相互の関係性を見つめることで、知とは何かという問いに新たな輪郭を与えることができるだろう。

1. 暗黙知──言葉にならない知

私たちは、言葉にしなくてもわかることがある。 火加減、目配せ、空気の読み合い、声色の変化、背中で教える技。 こうした知は、どこかで学んだというより、いつの間にか「身体の中に沈んでいる」ものである。

マイケル・ポランニーはこのような知を「暗黙知(tacit knowledge)」と呼び、 「私たちは語り得る以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」と述べた。

暗黙知は、経験に根ざし、時間と身体に沈殿し、ある時ふと表れる。 たとえば野球選手がフォームの“コツ”を言語化しようとしても、それは往々にして「うまく説明できない」ものだ。 あるいは老舗の料理人が「勘だよ」と言うとき、その言葉の背後には膨大な経験の蓄積がある。

暗黙知とは、知でありながら沈黙している知である。 それは“わかる”という感覚に近く、認知というよりも共鳴に近い。 だからこそ、暗黙知は師弟関係や長い共働の中でのみ伝承される。 そこでは「教える」とは言わず、「ともにある」ことが重要とされる。

2. 形式知──言葉にされた知

それに対して、言葉にし、図にし、再現可能にした知識がある。 それが「形式知(explicit knowledge)」である。

教科書の定義、マニュアル、業務手順、研修資料、法律文書、あるいはナレッジベース。 形式知は、誰が読んでも一定の意味が伝わるように構成されており、共有・伝達・標準化が可能である。

形式知の力は強い。 特に産業社会や情報化社会において、それは生産性と再現性を飛躍的に高めた。 人の経験や勘に頼らずとも、手順に従えばある程度の結果が出る。 マニュアル化されたチェーン展開、教育の標準カリキュラム、FAQの自動応答システム──いずれも形式知の勝利である。

だが、形式知には盲点がある。 それは“前提を問わない”ことだ。 すなわち、誰が、どのような状況で、どんな関係性の中で使うのかという「文脈」を持たない。

マニュアルに書かれているとおりに接客しても、相手が怒り出すことがある。 研修で習ったことを現場でやろうとしても、空気に馴染まず浮いてしまうことがある。

形式知とは、知を「切り取る」技術である。 ゆえに、切り取られなかった部分──つまり人間性や状況の複雑性は、そこから零れ落ちる。

3. 実践知──判断と文脈の知

アリストテレスは、知を三つに分けた。 理論知(エピステーメー)、技術知(テクネー)、そして実践知(フロネーシス)である。 この「フロネーシス(phronesis)」──現代では「実践知(practical knowledge)」と訳されるこの概念は、 暗黙知と形式知のはざまをつなぎ、「状況に応じて最もよく判断する」ための知である。

マニュアルは知っている。 経験もある。 だが、その両方をふまえて「今ここで、どうするか」を決める力。 それが実践知である。

たとえば、マニュアルに従えば正しいが、相手の表情を見て違う言葉を選ぶ判断。 あるいは、経験的には「こうすべき」と感じるが、今回はあえて違うやり方を試す。 そこには、経験・関係性・倫理・直観が複雑に絡み合っている。

実践知とは、知が人間に宿る瞬間であり、知が“生きる”場所である。 それは完成形ではなく、常に問い直される。 絶対的な正解はなく、「今の判断が、後でよかったと思えるか」を自らに問うプロセスが、実践知を育てていく。

4. 三つの知の相互作用

知は、静的な分類ではなく、動的な運動である。

暗黙知は、経験と身体に沈んでいる。 それが言葉として表現されたとき、形式知となる。 形式知は、他者と共有され、組織や社会の中で再構築される。 やがてそれが再び実践に戻り、内面化され、再び暗黙知へと変化していく。

この循環は、単なるループではない。 知はこの運動の中で、高まり、洗練され、深まっていく。 つまり、知とは「移ろいながら、深化する存在」なのだ。

だからこそ、「暗黙知か形式知か」という二項対立ではなく、その間をつなぐ「動き」にこそ注目する必要がある。 そして、その動きを統合し、高次へと導く原理──それが次章で扱う「アウフヘーベン」である。

知は静止していない。 知は、動く。 その動きを見つめるところから、私たちは本当に「知る」ことの意味を取り戻していくことになる。(2025/4/16 小竹)