性善説と性悪説は対立しているのか
「明徳とは何を明らかにすることなのか」連載第3回
性善説と性悪説は対立しているのか
前回は、徳とは行いと関係を生かす力であると述べた。
徳は、頭の中にある知識だけではなく、日々の行いの中に現れる。
そして、その行いが人との関係をどう変えるのかを見つめるところに、徳を考える意味がある。
では、その徳は、そもそも人間のどこにあるのだろうか。
この問いを考えるとき、古くから語られてきたものに、性善説と性悪説がある。
一般には、孟子は性善説、荀子は性悪説として説明される。
人間は本来善であると見るのか。
それとも、人間は本来悪に流れる存在であると見るのか。
この二つは、しばしば対立する考え方として扱われる。
しかし、本当にそうだろうか。
私は、性善説と性悪説は、まったく別のことを言っているのではないと思う。
むしろ、同じ人間を、異なる層から見ているのではないかと考えている。
性善説は、人間の内にある善の可能性を見ている。
人には、他者を思う心がある。
恥じる心がある。
譲る心がある。
何が正しいかを感じ取る心がある。
それは、まだ完成された徳ではない。
しかし、善へ向かいうる端緒である。
一方で、性悪説は、人間がその善をそのまま発揮できない現実を見ている。
人は、感情に流される。
利害に引きずられる。
自分を守ろうとする。
相手のためと言いながら、自分の都合を押しつけることもある。
見たいものだけを見て、見たくないものから目をそらすこともある。
だからこそ、人は学び、礼や規範に触れ、自らを整えていく必要がある。
性悪説は、人間を否定する思想ではなく、人間がそのままでは整わない現実を見つめる思想として読むことができる。
そう考えると、性善説と性悪説は、単純にどちらが正しいかという話ではなくなる。
性善説は、人間の奥にある価値を見ている。
性悪説は、その価値が余分なものに覆われ、歪んだ形で現れてしまう現実を見ている。
つまり、性善説は人間の本質を見ており、性悪説は人間の現れ方を見ているとも言える。
たとえば、金でできた仏像があるとする。
それを見れば、多くの人はありがたいものとして受け止める。
一方で、金でできた悪魔の像があるとする。
それを見れば、人は恐ろしいものとして受け止めるかもしれない。
しかし、どちらも金でできている。
ありがたさは、金そのものだけにあるのではない。
恐ろしさも、金そのものにあるのではない。
形によって、意味の現れ方が変わっているのである。
人間も、これに近いのではないか。
人間には、価値がある。
しかし、その価値は、いつもそのまま美しく現れるわけではない。
感情、欲、恐れ、保身、怠惰、思い込みといった余分なものによって、形が歪むことがある。
性善説は、その奥にある金を見ている。
性悪説は、現実に現れている形の歪みを見ている。
どちらか一方だけでは、人間を十分に見ることはできない。
人間には、善へ向かいうるものがある。
しかし、人間は放っておけば、その善を曇らせるものをまとってしまう。
だからこそ、学びが必要になる。
だからこそ、涵養が必要になる。
だからこそ、徳を磨くということが必要になる。
ここで大切なのは、人格を磨くとは、倫理的な知識を増やすことではないということである。
善とは何か。
悪とは何か。
徳とは何か。
それを言葉で説明できることは大切である。
しかし、それだけでは人は変わらない。
知識を静的に持っているだけでは、人は磨かれない。
知が自分を照らし、自分の行いを変え、人との関係を生かすように働いたとき、その知は初めて生きた知となる。
人は、石ころではない。
石ころはどれほど磨いても石のままである。
しかし、人間はそうではない。
人間は、磨かれることで光を放つ存在である。
ただし、その光は、何もしなくても自然に現れるものではない。
言葉に照らされ、すぐれた人のふるまいに触れ、経験の中で自分の未熟さに気づきながら、少しずつ現れてくるものである。
会社の現場でも、これは同じである。
人は、最初から完全に正しく判断できるわけではない。
報告をするとき、自分を守ろうとすることがある。
注意を受けたとき、素直に受け止められないことがある。
部下を指導するとき、相手の成長よりも自分の感情が先に出てしまうことがある。
お客様に向き合うときも、本当に相手を見ているのか、ただ作業として対応しているのかが問われる。
このような場面で、人間の弱さは現れる。
しかし、その弱さがあるからといって、人間に価値がないわけではない。
むしろ、その弱さに気づき、自分を整え直そうとするところに、人間が磨かれる可能性がある。
性善説だけを見ると、人間を楽観的に見すぎる危険がある。
人には善があるのだから、そのままでよいと思ってしまうかもしれない。
性悪説だけを見ると、人間を否定的に見すぎる危険がある。
人は放っておけば悪に流れるのだから、管理し、縛り、抑え込むしかないと思ってしまうかもしれない。
しかし、人間はそのどちらかだけではない。
人間には、光りうるものがある。
同時に、その光を曇らせるものもある。
だからこそ、人は磨かれなければならない。
この見方に立つと、徳とは、人間の内にある価値を信じながら、その価値が歪んで現れないように自らを整える働きであると言える。
そして明徳とは、その価値を明らかにすることである。
同時に、その価値を曇らせている余分なものに気づくことでもある。
善があるから安心するのではない。
弱さがあるから絶望するのでもない。
人間には、磨かれるべきものがある。
そのことを信じながら、日々の行いと関係の中で自分を整えていく。
そこに、徳を考える意味がある。
会社においても、人を育てるとは、この視点を持つことではないだろうか。
人を、最初から完成された存在として見るのではない。
かといって、管理しなければならない未熟な存在としてだけ見るのでもない。
その人の中にある価値を見ながら、同時に、その価値が曇ってしまう現実も見る。
そして、言葉をかけ、場を整え、経験を与え、振り返りを通して、その人が少しずつ自らを磨いていけるようにする。
それが、人を育てるということである。
性善説と性悪説は、対立しているのではない。
人間の内にある価値と、それを覆ってしまう余分なものを、別の角度から見ているのである。
徳とは、その二つの間で、人間を見失わないための考え方である。
人は光りうる存在である。
しかし、その光は、行いと関係の中で磨かれなければ現れない。
次回は、この「磨く」ということをさらに考えたい。
人格を磨くとは、何をすることなのか。
知識を増やすことではなく、言葉や人に涵養されるとはどういうことなのか。
その問いを通して、知と人格の関係を考えていく。
(2026年7月26日)
執筆者 小竹 竜也(Tatsuya Kotake)
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。



