徳は、知識として身につけるものなのか
「明徳とは何を明らかにすることなのか」連載第1回
「明徳」という言葉がある。
古典『大学』には、「大学之道、在明明徳」という一節がある。
大学の道は、明徳を明らかにすることにある、という意味である。
では、明徳とは何を明らかにすることなのだろうか。
この問いは、単に古典を学ぶための問いではない。
会社を運営し、人を育て、日々の現場で判断を重ねていく私たちにとっても、きわめて実務的な問いである。
なぜなら、仕事とは知識だけで成り立つものではないからである。
就業規則がある。
評価制度がある。
マニュアルがある。
報告の仕組みがある。
会議がある。
それらを知っていることは、もちろん大切である。
しかし、知っているだけでは十分ではない。
就業規則を知っていることと、なぜその規則が必要なのかを理解していることは違う。
評価制度を知っていることと、人をどう見て、どう育てるのかを考えることは違う。
マニュアルを知っていることと、その場で何を大切に判断するのかは違う。
知識は、外から身につけることができる。
しかし、徳は単に外から付け加えるものではない。
ここに、明徳を考える意味がある。
人は、言葉によって涵養(かんよう)される。
涵養とは、すぐに結果を出す教育ではなく、水が土にしみ込むように、少しずつ人の内側を養っていくことである。
古典の言葉、先人の言葉、現場で交わされる言葉。
そうした言葉に触れながら、人は少しずつ、自分の判断を磨いていく。
ここでいう涵養とは、外から別のものを付け足すことではない。
言葉や経験に触れることで、自分の行いが照らされ、内にあるものが少しずつ磨かれ、日々の判断の中に現れてくることである。
古くから、人は磨かれる存在として語られてきた。
石ころは、どれほど磨いても石のままである。
しかし人間は、磨かれることで光を放つ存在である。
その光は、知識を増やしただけでは現れない。
日々の仕事の中で、何を大切にするのか。
人にどう向き合うのか。
責任をどう引き受けるのか。
目の前の出来事を、ただ処理するのではなく、どのような意味を持つものとして受け止めるのか。
そこに、その人の徳は現れる。
たとえば、お客様にどう向き合うか。
部下の失敗をどう受け止めるか。
決まりを守らせるだけで終わるのか、それとも決まりの意味を伝えるのか。
報告を受けたとき、事実だけを見るのか、その背後にある判断や迷いまで見るのか。
こうした場面で問われているのは、知識の量ではない。
その人が、どのように物事を見ているかである。
どのような価値を大切にし、どのように判断し、どのように人と向き合うかである。
徳とは、知識として頭に蓄えるものではない。
もちろん、知識は必要である。
制度を知らずに組織を運営することはできない。
規則を知らずに人を守ることもできない。
マニュアルを知らずに仕事の基準を整えることもできない。
しかし、知識は持っているだけでは働かない。
その知識が、現場の判断の中でどう働くのか。
人を責めるために使われるのか。
人を育てるために使われるのか。
組織を縛るために使われるのか。
組織をよりよく動かすために使われるのか。
そこに、徳の有無が表れる。
明徳とは、外から新しい何かを付け加えることではない。
もともと人の内にある光が、言葉と経験によって磨かれ、日々の判断の中に現れてくることではないか。
人は、知識を得ることで成長する。
しかし、それだけではまだ足りない。
知識が判断となり、判断が行動となり、行動が人との関係をつくっていくとき、そこに徳が現れる。
私はこの問いを、人の内にある光が、行いと関係の中でどのように明らかになるのかという問いとして受け止めている。
この連載では、「明徳とは何を明らかにすることなのか」という問いを通して、徳とは何かを考えていく。
それは、古典を遠くから眺めるための問いではない。
私たちが日々の仕事の中で、自分自身をどう磨き、人をどう育て、組織をどうよくしていくのかを考えるための問いである。
(2026年7月12日)
執筆者 小竹 竜也(Tatsuya Kotake)
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。



