徳とは、行いと関係を生かす力である

「明徳とは何を明らかにすることなのか」連載第2回

前回は、明徳とは何を明らかにすることなのかを考えた。

そこで述べたのは、徳とは外から貼りつける倫理知識ではない、ということである。
徳とは、人の内にある価値が、行いと関係の中で現れてくるように、自らを整え続ける働きである。

では、その徳は、どこに現れるのだろうか。

徳は、頭の中にあるだけでは見えない。
言葉として語られるだけでも、まだ十分ではない。
徳は、人が何かを行い、その行いが誰かとの関係に影響を与えるところに現れる。

つまり、徳は「行い」と「関係」の中に現れる。

人は、日々何かをしている。
話す
聞く
教える
叱る
任せる
報告する
謝る
判断する

その一つひとつは、小さな行いである。
しかし、その行いは必ず誰かとの関係に影響を与える。

同じ言葉でも、相手を生かすことがある。
同じ指摘でも、相手を萎縮させることがある。
同じ報告でも、事実を明らかにすることがある。
同じ報告でも、自分を守るための説明に終わることがある。

行いは、単独では終わらない。
行いは、関係を変える。
関係は、次の行いを生む。
そして、その積み重ねが、職場の空気や組織の質をつくっていく。

だからこそ、徳とは、立派な考えを持っていることだけではない。
徳とは、自分の行いが相手との関係にどのような影響を与えるのかを見つめ、その関係をよりよく生かす方向へ選び直す力である。

たとえば、部下が失敗したとする。

そのとき、上司はすぐに責めることもできる。
「なぜできなかったのか」と問い詰めることもできる。
「前にも言っただろう」と感情をぶつけることもできる。

しかし、それによって何が生まれるのか。

相手が萎縮し、事実を隠すようになるなら、その行いは関係を生かしていない。
一時的に上司の感情は収まるかもしれない。
しかし、次の報告が遅れ、問題が見えにくくなり、組織としての改善は遠のいていく。

反対に、同じ失敗に対しても、事実を確認し、原因を整理し、次にどうすればよいかを一緒に考えることもできる。

もちろん、甘やかすという意味ではない。
責任を曖昧にするという意味でもない。
必要な指摘はしなければならない。

しかし、その指摘が相手を潰すためのものなのか、次の行動につなげるためのものなのかで、行いの質は大きく変わる。

ここに徳が現れる。

徳とは、優しい言葉を使うことだけではない。
厳しいことを言わないことでもない。
徳とは、その場で何を守り、何を育て、何を次につなげるのかを見極める力である。

職場では、制度やルールが必要である。
しかし、制度やルールは、それだけで人を育てるわけではない。

同じ制度でも、運用する人によって意味が変わる。
ある人は、制度を人を縛るために使う。
ある人は、制度を自分の責任を逃れるために使う。
またある人は、制度の目的を理解し、人と組織を守るために使う。

この違いは、制度そのものの違いではない。
制度を受け取り、どう行うかの違いである。
つまり、徳の違いである。

会社の現場において、徳は抽象的なものではない。

お客様が来店されたとき、ただ「いらっしゃいませ」と言うだけなのか。
その方が何を求めて来られたのかを感じ取り、場を整えようとするのか。

スタッフから相談を受けたとき、ただ処理するだけなのか。
その言葉の奥にある不安や迷いを受け止め、次の行動につなげようとするのか。

報告を受けたとき、都合のよい情報だけを見るのか。
都合の悪い事実も含めて、店をよくする材料として受け取るのか。

これらは、すべて日常の小さな場面である。
しかし、その小さな場面に、人の質が現れる。
そして、その人の質が、職場の質をつくっていく。

徳とは、特別な場面だけに必要なものではない。
むしろ、日常の中にこそ現れる。

忙しいとき。
余裕がないとき。
自分に不利な事実が出てきたとき。
相手が思うように動かないとき。
感情が揺れたとき。

その刹那に、何を選ぶのか。
そこに徳が現れる。

ここでいう刹那とは、単なる一瞬のことではない。
感情に流れるのか、事実を見るのか。
相手を閉じさせるのか、次の行動へ開かせるのか。
その分かれ目になる判断の一点である。

人は、いつも完全に正しく判断できるわけではない。
感情に流されることもある。
自分を守ろうとすることもある。
相手のためと言いながら、実は自分の都合を押しつけていることもある。

だからこそ、自らを整える必要がある。

自らを整えるとは、感情をなくすことではない。
自分を押し殺すことでもない。
自分の中にある感情や利害や恐れに気づきながら、それにそのまま支配されないようにすることである。

そして、目の前の行いが、相手との関係をどう変えるのかを見つめることである。

徳とは、正しいことを知っているだけでは成り立たない。
正しいことを言うだけでも足りない。
その正しさが、相手を生かし、関係を生かし、次の行動につながってはじめて、徳として現れる。

ここで大切なのは、徳を「よい人であること」と単純に考えないことである。

徳のある人とは、単に穏やかな人や優しい人のことではない。
自分の言葉や判断が、相手との関係に何をもたらすのかを見つめられる人である。
そして、その場の感情や都合に流されず、次のよい行いが生まれる方向へ、自分の行いを選び直せる人である。

会社において、これは非常に重要である。

なぜなら、組織は人と人との関係によって動いているからである。
売上も、接客も、教育も、報告も、改善も、すべて人の行いと関係の中で生まれる。

よい制度があっても、関係が壊れていれば機能しない。
よい方針があっても、行いが伴わなければ現場には届かない。
よい言葉があっても、その言葉が人を生かす形で使われなければ、組織の力にはならない。

だから、徳を考えることは、決して古い道徳論ではない。
それは、会社の実務を支える根本の問いである。

人はその刹那にどう判断するのか。
その判断は、どのような行いとなって現れるのか。
その行いは、どのような関係を生むのか。
その関係は、人を生かすのか、それとも閉じさせるのか。

この問いを持つことが、徳を考える第一歩である。

徳とは、行いと関係を生かす力である。
そして、明徳とは、その力が自分の中でどのように曇り、どのように現れ、どのように磨かれていくのかを明らかにすることである。

次回は、性善説と性悪説について考えたい。

人は本来善なのか。
それとも、人は悪へ流れる存在なのか。
この二つは、本当に対立しているのだろうか。

この問いを、単なる古典上の対立としてではなく、人がその刹那に何を選び、どのように行いと関係を変えていくのかという視点から考えていきたい。

(2026年7月19日)


執筆者 小竹 竜也(Tatsuya Kotake)
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。

著書『徳とは、時を流す力である』を2026年6月、Amazon にて発刊。

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