学びを実へつなぐ――第9回 役割は人を縛るためではなく責任を明らかにするためにある

〜境界があるから、人は判断できる〜

前回、会議と振り返りは答えを配る場ではなく、判断を深める場であると述べた。情報を並べるだけでは、知は残らない。体験を言葉にし、判断を判別可能にしてはじめて、出来事は組織の知へと変わっていく。

だが、ここでもう一つ見なければならないものがある。会議や振り返りが深まるためには、そもそもだれが何を引き受け、どこまでを判断し、どこからをつなぐのかが見えていなければならないということである。役割の境界が曖昧なままでは、会議は責任の押しつけ合いになりやすく、振り返りもまた、だれの判断をどこで見直せばよいのかがぼやけてしまう。

そこで問われるのが、役割とは何かということである。

役割という言葉もまた、しばしば誤解されやすい。役割を決めるというと、人を固定すること、自由を奪うこと、上下関係を強めることのように受け取られやすい。たしかに、役割がただの統制装置として使われれば、そのような結果になることはある。だれが偉いかを示すためだけの役職や、責任ではなく権威だけを肥大させる役割は、人を育てるどころか、仕事を鈍らせる。

しかし、本来の役割はそういうものではない。役割とは、人を縛るためのものではなく、責任を明らかにするためのものである。

仕事の現場を思い浮かべると、このことはわかりやすい。ある場面で判断が必要になったとき、だれがそれを引き受けるのかが曖昧であれば、人は自由になるのではない。むしろ不安定になる。自分が判断してよいのかがわからない。だれかがやるだろうと思って動かない。逆に、本来自分の役割ではないところまで抱え込んでしまう。そうしたことが重なると、仕事は属人的になり、疲弊し、問題が起きてもどこで見直せばよいのかが見えなくなる。

つまり、役割が曖昧な組織では、人は自律しているようでいて、実際には判断の足場を失っているのである。

たとえば、混雑した時間帯に、お客様が会計を待っている一方で、料理提供も遅れ気味になっているとする。そのとき、だれが全体を見て優先順位を決めるのか。だれがまず会計へ向かい、だれが提供遅れのフォローに回り、だれが厨房とのつなぎ役になるのか。こうしたことが役割として見えていないと、人はその場その場の勢いで動くしかなくなる。問題が生じたときにも「みんなで何とかしていた」という曖昧な記憶しか残らず、何を見直せばよいかがわからない。

しかし、役割が明確であれば、ここでの判断は支えられる。だれが全体を見るのか。どこまでを自分が引き受け、どの時点で他の役割へ渡すのか。その境界が見えているとき、人はむしろ落ち着いて動ける。責任がはっきりしているからこそ、過度に抱え込まず、無責任にもならずにすむのである。

この意味で、役割とは仕事を細かく分断するためのものではない。判断の所在を明らかにすることで、協働を可能にするためのものである。

ここで大切なのは、役割を「作業の一覧」として捉えないことである。

役割とは、本来、「何をするか」だけではなく、「何を判断するか」「どこまでを引き受けるか」「どこからをつなぐか」を含んでいる。たとえば店長という役割を、単に発注やシフト作成や売上確認の担当だと見るなら、それは仕事の表面しか見ていない。店長とは、本来、店の中で何を優先し、どこで例外を引き受け、どこで他の役割へつなぐかを判断する位置なのである。

同じことは、本部や管理部門にも言える。本部の役割を、細かく指示を出すことだと考えると、店の判断は痩せていく。逆に、本部の役割を、境界を明確にし、役割間の接続を整え、例外や制度の設計を引き受けることだと考えるなら、店舗は店舗として判断しやすくなる。ここでも役割の核心は、作業の代行ではなく、責任の明確化にある。

役割をめぐる混乱の多くは、この「責任の明確化」という視点を失ったときに起きる。だれが責任を持つのかが曖昧だと、人は二つの方向へ流れやすい。一つは、何でも抱え込む方向である。よかれと思って踏み込みすぎ、他人の役割まで引き受け、結果として疲弊し、周囲の判断機会まで奪ってしまう。もう一つは、何も引き受けない方向である。これは自分の仕事ではない、指示されていないと言って、判断そのものから退いてしまう。どちらも、組織にとってよい状態ではない。

だからこそ、役割の境界は必要なのである。ただし、ここでいう境界は、壁ではない。外と内を断絶するためのものでもない。境界とは、どこで役割が切り替わり、どこで判断をつなぐべきかを示す接点である。役割が違うということは、対立しているということではない。むしろ、役割が違うからこそ、どこで受け渡すかが重要になる。店と本部、ホールと厨房、責任者と担当者。そうしたあいだに境界があるからこそ、連携は初めて具体的になる。

境界がないように見える組織は、一見やわらかく、自由で、よく助け合っているように映ることがある。だが実際には、境界が曖昧な組織ほど、空気や人間関係に依存しやすい。だれがどこまでやるのかが明文化されていないため、声の大きい人、長くいる人、気がつく人に負荷が集中する。そして問題が起きたときには、「みんなでやっていた」がゆえに、だれの判断として見直せばよいのかがわからない。これは協働ではなく、責任の霧である。

反対に、よい境界がある組織では、人は自分の役割を果たしながら、必要なところで他の役割へつなげることができる。店長は何でも自分で処理する人ではなく、店として引き受けるべき判断の最終点として立つ。担当者はただ従う人ではなく、その役割の範囲で見るべきことを見て、必要なときに上位や他役割へ渡す。こうして初めて、人は自分の位置から判断できるようになる。

ここで、役割と成長の関係も見えてくる。役割が明確であることは、人を固定することではない。むしろ、自分が今どこから仕事を見ているのかをはっきりさせることで、何を学ぶべきかを見えやすくする。自分の役割が曖昧なままだと、何が見えていないのかすらわかりにくい。だが、役割が明らかであれば、自分がどの判断を引き受けるべきかがわかる。そのぶん、振り返りも深くなる。どこで判断が遅れたのか。何を見落としたのか。どこから先はつなぐべきだったのか。そうしたことが、役割を足場にして初めて言葉になる。

つまり、役割とは成長の敵ではない。むしろ、成長のための輪郭である。

役割は一度決めたら固定不変でよいというものではない。仕事の実態に合っていなければ、役割は見直されなければならない。だが、それは役割が不要だという意味ではない。役割を更新し続けるということ自体が、組織が自分たちの仕事を見直している証でもある。

ここで改めて思うのは、成長とは、自由にさせれば起きるものでもなく、細かく縛れば起きるものでもないということである。必要なのは、だれが何を引き受けるのかが見え、そのうえで自分の役割の中から判断できることである。役割は、その条件を整える。責任の所在を明らかにし、境界を曖昧にせず、受け渡しの接点をつくる。そうすることで、人は初めて、他人の顔色ではなく、自分の役割から仕事を見られるようになる。

理念、仕組み、育成、評価、会議、役割。これらがばらばらに存在しているのではなく、すべてが一点に向かっているとすれば、その一点とは何か。次回、最終回でその問いに答えたい。(2026年6月7日)


執筆者 小竹 竜也
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。

著書『徳とは、時を流す力である』を2026年6月、Amazon にて発刊。

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