制度の内側で、人はどう判断するのか
「明徳とは何を明らかにすることなのか」連載第7回
前回は、大人に涵養されるということについて考えた。
人は、知識だけで育つのではない。
よい言葉に触れ、よいふるまいに触れ、自分の未熟さと可能性に気づきながら、少しずつ磨かれていく。
では、その磨かれた人格は、どこで問われるのだろうか。
それは、制度やルールの外側ではない。
むしろ、制度やルールの内側でこそ問われる。
会社には、制度がある。
就業規則がある。
評価制度がある。
報告のルールがある。
役割分担がある。
マニュアルがある。
これらは、組織を成り立たせるために必要なものである。
制度がなければ、判断は人によってばらばらになる。
ルールがなければ、責任の所在が曖昧になる。
基準がなければ、評価も管理も、その場の感情に流されやすくなる。
だから、制度は必要である。
ただし、制度の役割は、人から判断をなくすことではない。
制度は、判断が独りよがりにならないための土台をつくる。
ここを取り違えると、制度は生きなくなる。
同じ制度を前にしても、人の受け取り方は違う。
制度を、人を縛るために使う人がいる。
自分の責任を逃れるために使う人がいる。
形だけ守ればよいものとして扱う人もいる。
一方で、その制度が何を守ろうとしているのかを考え、現実に起きていることを見ながら使う人もいる。
違うのは、制度そのものではない。
制度の内側で、何を見て、どう判断しているかである。
ここに、徳が現れる。
徳とは、制度を無視して自分の感覚だけで決めることではない。
かといって、制度を機械のように当てはめることでもない。
制度が何のためにあるのかを見失わず、目の前で起きている事実を見て、自分の行いが人との関係に何を生むのかを考えながら、判断を閉じないこと。
徳は、そのような働きとして現れる。
正しい答えを最初から知っているということではない。
新しい事実が見えれば、考え直す。
自分の判断が違っていたと分かれば、修正する。
制度の文言だけで現実を切り捨てず、しかし自分の都合で制度を曲げることもしない。
その判断のあり方に、その人が現れる。
たとえば、報告のルールがある。
報告は、上司を安心させるためだけにあるものではない。
また、「私は伝えました」と責任を切り離すためのものでもない。
本来は、事実を共有し、問題を早く見つけ、次の判断につなげるためにある。
ところが、その目的が見えなくなると、報告は形だけになる。
「報告しました」
「伝えました」
「言うべきことは言いました」
そこで終わってしまう。
形式だけを見れば、報告という行為は成立している。
しかし、何が起きているのかが共有されず、誰も次の判断ができないのであれば、制度の目的には届いていない。
報告の意味を見ている人は、もう少し先まで見る。
何が起きているのか。
事実として確認できていることは何か。
まだ分かっていないことは何か。
どこに問題があるのか。
次に誰が何を判断する必要があるのか。
同じ「報告」であっても、そこから生まれるものは大きく違う。
形だけの報告は、責任の押しつけ合いを生むことがある。
事実を見る報告は、次の判断を開く。
評価制度も同じである。
評価制度は、人を序列化するためだけにあるものではない。
働き方を見えるようにし、会社として何を大切にするのかを示し、自分の仕事を振り返るための基準でもある。
しかし、点数だけを見るようになると、制度の意味は変わる。
自分は何点なのか。
誰より上なのか。
なぜ下げられたのか。
どうすれば損をしないのか。
そうなれば、評価は自分を守るための制度になる。
一方で、評価を自分の行いを見直す機会として受け取るなら、別の問いが生まれる。
自分は何を見て仕事をしていたのか。
お客様に対して、どのような行いをしていたのか。
スタッフとの関係をどうつくっていたのか。
問題が起きたとき、自分は何を見落としていたのか。
次に変えるべきことは何か。
このとき、評価は単なる点数ではなくなる。
自分を照らす知になる。
制度が人を育てるかどうかは、制度そのものだけでは決まらない。
その制度を前にして、どのような問いを持つかによって変わる。
これは、より実務的な場面で考えると分かりやすい。
たとえば、勤務時間について上限を定めた制度があるとする。
上限を超えていなければ、それで問題はないのだろうか。
本人が「働けます」と言っている。
忙しい時期だった。
規則上の上限には達していない。
それだけを確認して、「制度上は問題ありません」と終えることもできる。
しかし、そこで判断を止めてしまえば、制度を見ていても、現実は見ていないかもしれない。
なぜ、その勤務時間になっているのか。
仕事量そのものが多いのか。
人員配置に問題があるのか。
作業方法に無駄があるのか。
本人が仕事を抱え込んでいるのか。
管理者が適切に役割を分けていないのか。
さらに、この状態を続ければ何が起こるのか。
疲労が積み重なるのか。
他の人との役割分担が崩れるのか。
「あの人がやればよい」という関係を固定するのか。
それとも、一時的な対応として合理的なのか。
制度は、まず境界を示してくれる。
しかし、その境界の内側で何が起きているかまでは、制度だけでは教えてくれない。
だから、人が見る必要がある。
ここで重要なのは、事情があるから制度を無視してよいということではない。
反対に、制度を守っているから考えなくてよいということでもない。
制度を土台にしながら、目の前の事実を見て、自分の判断が何を生み出すのかを考える。
それが、制度の内側で判断するということである。
そして、この問いは、問題が起きたあとに振り返るためだけのものではない。
判断しようとする、そのときにも持つことができる。
自分はいま、制度の文言だけを見ていないか。
まだ見えていない事実はないか。
一つの事情だけで結論を決めていないか。
この判断によって、行いと関係を固定してしまわないか。
こうして判断の途中で問い直すことができれば、判断は簡単には閉じない。
会社の現場には、このようなことがいくつもある。
報告の遅れをどう扱うのか。
スタッフの希望をどこまで受け止めるのか。
お客様への対応で、どこまで現場判断を認めるのか。
役割の境界をどこに置くのか。
制度だけで、すべての答えが出るわけではない。
しかし、だからといって、制度が不要なのでもない。
制度は、判断が独善に流れることを防ぐ。
一方で、徳は、判断が形式の中で止まってしまうことを防ぐ。
この二つは、対立していない。
制度があるから、判断は自分勝手にならずに済む。
徳があるから、制度は形だけにならずに済む。
制度だけでは、人は守れない。
善意だけでも、組織は守れない。
制度のない善意は、その場の感情や関係に流れ、不公平を生むことがある。
徳を欠いた制度運用は、人も事情も見ず、ただ形式を当てはめるものになっていく。
だからこそ必要なのは、どちらか一方ではない。
制度という枠の中で、なお判断し続けることである。
では、その判断の質はどこに現れるのだろうか。
結果だけを見て、「うまくいったから正しかった」と考えるのでは足りない。
まず見るべきなのは、その人が判断するときに何を見ていたかである。
制度の文言だけを見ていたのか。
制度が守ろうとしているものを見ていたのか。
現実に起きている事実を見ていたのか。
自分の行いが、相手との関係に何を生むかを見ていたのか。
そして、新しい事実に気づいたとき、自分の判断を改めることができたのか。
ここに、徳の働きが見える。
さらに、もう一つ問う必要がある。
何を見て判断しているかだけではなく、その制度を使って、自分は何をしようとしているのかという問いである。
人を守ろうとしているのか。
組織の判断をよくしようとしているのか。
それとも、自分を守ろうとしているのか。
相手を動かそうとしているのか。
責任から離れようとしているのか。
同じ制度を使っていても、その向かう先は違う。
明徳とは、この判断の質を明らかにすることでもある。
何を見ているのか。
何を生もうとしているのか。
そして、新しい事実に出会ったとき、判断を開いたままにしておけるのか。
制度の前に立ったとき、人の内側はよく現れる。
同じルールを前にしても、何を見るかは人によって違う。
そして、その違いは、次の行いを変える。
行いが変われば、関係も変わる。
関係が変われば、そこでまた次の行いが生まれる。
徳とは、正しい判断を所有していることではなく、何を見ているか、何を生もうとしているかを問いながら、新しい事実に対して判断を閉じずにいられる働きなのかもしれない。
次回は、この「行い」と「関係」のつながりについて、もう少し考えてみたい。
一つの行いは、その場で終わるわけではない。
行いは関係を変え、関係は次の行いを生む。
その循環の中で、徳はどのように働くのか。
そこを考えていく。
(2026年8月23日)
執筆者 小竹 竜也(Tatsuya Kotake)
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。



