人格を磨くとは、知識を増やすことではない
「明徳とは何を明らかにすることなのか」連載第4回
前回は、性善説と性悪説について考えた。
性善説は、人間の内にある善への可能性を見ている。
性悪説は、その善がそのまま現れず、感情や利害や保身によって曇ってしまう現実を見ている。
つまり、この二つは単純に対立しているのではない。
人間の内にある価値と、それを覆ってしまう余分なものを、別の角度から見ているのである。
では、人間の内にある価値は、どのようにして現れてくるのだろうか。
言い換えれば、人格を磨くとは、何をすることなのだろうか。
人格を磨くというと、道徳的な知識を身につけることのように思われることがある。
善とは何かを学ぶ。
悪とは何かを学ぶ。
仁義礼智を知る。
礼儀や規範を覚える。
もちろん、それらを学ぶことには意味がある。
しかし、知識を増やすことそのものが、人格を磨くことではない。
どれほど立派な言葉を知っていても、その言葉が自分の行いを照らさなければ、人は変わらない。
どれほど多くの倫理を語れても、目の前の相手との関係を生かせなければ、それは徳として現れない。
知識を持つことと、知が自分の中で働くことは違う。
ここを取り違えると、学びは静的なものになる。
知識を所有する。
言葉を覚える。
正解を知る。
説明できるようになる。
しかし、それだけでは人格は磨かれない。
人格を磨くとは、知識を自分の外側に集めることではない。
むしろ、言葉が自分の内側に入り、自分の行いを問い直すようになることである。
ある言葉に出会ったとき、これまでの自分の判断が照らされることがある。
自分では正しいと思っていた行いが、実は相手を閉じさせていたと気づくことがある。
相手のためと言いながら、実は自分の都合を押しつけていたと見えることがある。
そのとき、知は単なる知識ではなくなる。
自分を照らすものになる。
これが、生きた知である。
生きた知とは、覚えた知識のことではない。
自分の行いを変える知である。
人との関係を見つめ直させる知である。
その場の判断を、よりよい方向へ選び直させる知である。
そして、知が行いとなり、関係の中に現れたとき、人間の内にあるものもまた明らかになる。
その働きは、やがて明徳という問いへとつながっていく。
だから、人格を磨く第一歩は、知に対する認識を正すことにある。
知とは、自分を照らし、行いを変え、関係を生かすように働くものである。
この認識がなければ、どれほど学んでも、その学びは人格へ届かない。
人は、言葉によって磨かれる。
ただし、それは言葉を暗記するという意味ではない。
言葉に触れ、その言葉によって自分が照らされるという意味である。
同じ言葉でも、ただ知識として聞き流せば何も変わらない。
しかし、その言葉が自分の経験と結びついたとき、人は初めて自分の姿を見ることがある。
たとえば、「相手の立場に立つ」という言葉がある。
これは誰でも知っている言葉である。
しかし、知っていることと、実際にそうできていることは違う。
忙しいとき。
自分に余裕がないとき。
相手が思うように動かないとき。
そのとき、本当に相手の立場に立てているのか。
その問いが自分の中に生まれたとき、言葉は知識ではなく、自分を磨く力になる。
また、人は人によっても磨かれる。
言葉は、知を伝える。
しかし、人のふるまいは、その知が実際にどのように働くのかを見せる。
だから、人は言葉だけでなく、その言葉を生きている人の姿からも学ぶのである。
ここでいう人とは、単に年齢が上の人という意味ではない。
肩書きのある人という意味でもない。
大人(たいじん)である。
大人とは、感情に任せて場を壊さない人である。
自分の都合だけで物事を見ない人である。
相手を押さえつけるのではなく、相手が自ら気づく余地を残せる人である。
その場の行いが、次の関係をどうつくるのかを見ている人である。
そのような人のふるまいに触れると、人は涵養される。
涵養とは、すぐに答えを与えられることではない。
外から形だけを直されることでもない。
水が土にしみ込むように、少しずつ内側から育まれていくことである。
人は、強く命令されただけでは磨かれない。
知識を詰め込まれただけでも磨かれない。
よい言葉に触れ、よいふるまいに触れ、自分の未熟さに気づきながら、少しずつ自分を整えていく。
人格を磨くとは、そのような過程である。
石ころは、磨けば光沢を帯びる。
しかし、石ころが自ら、どのように光るかを選ぶことはない。
人間はそうではない。
人間の内には、光りうるものがある。
そして人は、自らの行いを見つめ、何を大切にするのかを選び直すことができる。
ただし、これは人間が初めから完全な善を備えているという意味ではない。
人は善へ向かう可能性を持つと同時に、感情や利害や保身に流される弱さも持っている。
光りうるものがあるから、必ず光るわけではない。
何もしなくても、自然に現れるわけでもない。
余分なものに覆われることがある。
感情に曇ることがある。
利害に歪むことがある。
保身によって見えなくなることがある。
だからこそ、磨く必要がある。
磨くとは、外から別のものを貼りつけることではない。
内にあるものがよりよく現れるように、自分の行いを問い直し、余分なものを少しずつ取り除いていくことである。
この見方に立つと、教育や人材育成の意味も変わってくる。
人を育てるとは、単に知識を教えることではない。
やり方を覚えさせることだけでもない。
正解を与えることでもない。
もちろん、知識も必要である。
技術も必要である。
手順も必要である。
しかし、それらは人を動かすためだけにあるのではない。
その人が、自分の行いを見つめ、関係を生かす判断ができるようになるためにある。
会社の現場では、日々さまざまな指導が行われる。
報告の仕方を教える。
接客の仕方を教える。
作業の手順を教える。
クレーム対応を教える。
部下への声のかけ方を教える。
しかし、本当に大切なのは、その奥にある。
なぜ報告するのか。
なぜ接客するのか。
なぜ手順を守るのか。
なぜ相手の話を聞くのか。
なぜその場で感情を抑え、事実を見る必要があるのか。
その意味が見えていなければ、仕事は作業になる。
報告は提出物になり、接客は決められた動作になり、手順は守ったかどうかだけで判断される。
言われたことをやった。
やるべきことをやった。
言うべきことを言った。
そこで止まってしまう。
しかし、その行為が誰との関係を支え、何を生かすためにあるのかを問い直したとき、仕事は自分の判断を照らすものになる。
自分の行いが、相手に何をもたらしたのか。
その判断が、関係を生かしたのか。
その言葉は、次の行動につながったのか。
その場で、自分は何に流されていたのか。
この問いを持てるようになることが、人格を磨くことである。
そして、その問いを持たせてくれるものが、言葉であり、大人であり、経験である。
人は、ただ知識によって変わるのではない。
知識が言葉となり、その言葉が経験と結びつき、自分の行いを照らしたときに変わる。
また、大人のふるまいに触れ、その姿を通して、自分の未熟さと可能性を知ったときに変わる。
その意味で、人格を磨くとは、静的な学習ではない。
生きた知によって、自分の行いと関係が少しずつ変わっていく過程である。
明徳とは、その過程の中で、人間の内にある光を明らかにしていくことである。
最初から完全な人間になることではない。
自分に弱さがないと思い込むことでもない。
むしろ、自分の中にある曇りに気づきながら、それでも光りうるものを信じて磨き続けることである。
人格は、どれだけ多くを知っているかによって決まるのではない。
その知が、どれだけ自分の行いを照らしているかによって深まる。
人は、言葉によって涵養される。
人は、大人によって涵養される。
そして、日々の行いと関係の中で、少しずつ磨かれていく。
次回は、この「知」をさらに考えたい。
知とは、覚えるものなのか。
それとも、自分を照らし、行いを変え、関係を生かすものなのか。
その問いを通して、生きた知とは何かを考えていく。
(2026年8月2日)
執筆者 小竹 竜也(Tatsuya Kotake)
株式会社フーズサポートモリカ 本部長。
日々の実務から問いを立て、理論と現実をつなぐことをテーマに執筆している。



